今求められている良寛さまのこころ
―生きる知恵・いのちの輝きー

良寛さまってどんな人


 良寛の一生

 良寛といえば、子供の好きな坊さん、惠み深い坊さんとして誰からも慕われ、また歌人、詩人として、書家としても世に知られた人である。
 この良寛は宝暦八年(1758)、今から246年前、越後出雲崎の名主兼神官の橘屋山本以南(いなん)の長男として生れた。弟が三人、妹が三人の七人兄弟であった。
 幼名を栄蔵といい、後に文考(ふみたか)、宇(あざな)を曲(まがり)と称した。 性質は魯直(ろちょく)で、口数が少なく、また無欲であった。従って世間や人事のことには疎く、人に対して正しく行儀することもできない人だったという。


良寛の生まれた出雲崎町

生家橘屋の屋敷跡に建てられた良寛堂(真向かいに母の生地佐渡島が霞む)


 人々は彼を″名主の昼行燈″とあだなした。少年時代の彼は、事実そうした人間であったと考えられる。
 ところで、こうした中で注意をひかれるのは、彼が読書にふけったという事実である。それに関して良寛自身の話も残されている。
 しかし、父母は彼が人々から昼行燈などと評されたことへの憂いもあり、十一歳の時地蔵堂の狭川(せばがわ)塾の儒者大森子陽の門に入らせ、和漢の学問を修めさせた。


良寛参禅剃髪の寺 光照寺
光照寺


 そして、十六歳で、一度は名主見習役の職に就いたが、十八歳の時、隣町尼瀬の曹洞宗光照寺玄乗破了和尚の下に参禅したが、それから二年、この間の四年ほどの歳月の経過の中で世の無常に俗事に厭離(えんり)の心がつのり、二十二歳の時に出家、その頃高徳の僧とうたわれた破了の若き日の師、備中玉島円通寺の国仙和尚が、かっての弟子たちの寺院を巡り、その徒次ここ光照寺の授戒会(じゅかいえ)出席を兼ねて訪れた時、良寛はその徳を慕って国仙の後に従い、そのまま円通寺に赴き、以来十二年間、そこですべてを捨てて、修行求道に身を打ち込んだのであった。
 しかし、師国仙の示寂後、彼は名僧知識を訪ねて全国行脚に出たのであった。

 父母の死

 良寛が玉島に在って二十六歳の時、母秀子(一説におのぶ)は四十九歳にしてこの世を去った。また、諸国行脚の三十八歳、父以南の京都桂川入水自殺(高野山に隠れ住んだという説もある)を聞いたのであった。
 良寛にとって父母の死は、その頃の彼の心を一変させるほどの打撃であり、特に父の変死にいたっては大なるものがあった。というのは、当時は賄賂(わいろ)政治で名高い、老中田沼時代の荒れ果てた、世に言われる暗黒時代であり、またこの頃、代官と結んでいた尼瀬町の京屋の勢力によって、生家橘屋は名主職さえ奪われようとしていた時期でもあったし、こうした中にあって父以南は勤皇の志士として国事に奔走していたからである。


空庵跡碑

五合庵


 良寛の出家も、時代的圧力に抗し切れなくなったということにも大きな原因があり、これらのことから関連して、父以南の自殺は良寛の胸を痛くしめつけ、このことがあってより、良寛の求道の志はますます深まっていったのであった。
 そして、五年有余の全国行脚の後、遂に大いなる悟りを開き、故郷越後に戻ったのである。時に三十九歳であった。
 初め寺泊町郷本の空庵に、そして五合庵に住んだが、その後あちこちの草庵を点々とし、再び五合庵に住し、ここを安住の地と定めたのであった。
 良寛の人間的円熟の期は、こうして一歩を踏み出したのである。


良寛が十年間住んだ乙子神社

乙子神社わきの草庵


 終焉

 五合庵に居ること十二年の長きであったが、この間全く自然の中に生き、彼自身いわば自然そのものになっていたといえる。
 しかし、こうした良寛も、やはり人間界から脱することはできなかった。
 五十九歳の時五合庵を出て、山麓の乙子(おとご)神社の草庵に移り、そこで十年間過ごし、遂に六十九歳老垂に悩まされ、また孤独の寂しさに耐えかねて、和島村島崎の旧家、能登屋(のとや)木村元右衛門の邸内に移り住んだのであった。


良寛終焉の地 木村家入口門

木村家 庭内の良寛草庵のあったところ


 そして、良寛の唯一の女弟子ともいわれる貞心尼(ていしんに)を知ったのである。
 ここに彼の人間愛慕の念は結集され、それから足掛け六年目の天保二年(1831)正月六日の夕暮れ、七十四歳にして安らかに大往生を遂げたのであった。






良寛がよく散歩で立ち寄った夕暮れの丘

良寛の墓のある隆泉寺

隆泉寺境内の良寛の墓(向かって右、左側は弟由之の墓)

分水町良寛資料館全景(この近くに子陽塾があった)