明治初年の荒牧村の古地図(群馬県立文書館蔵)「荒牧村」をみると、「郷御蔵」の場所がある。郷御蔵の南に「字郷蔵前」、北には「字郷蔵後」の字名がある。広瀬川と旧沼田街道にはさまれた現在の荒牧町下宿のあたりに、五畝二十六歩の広さの土地を郷蔵用地に使っている。そのあたりの土地利用は郷蔵の南は「屋敷」が多く見られ、北は「畑」が多い。
南橘村誌には荒牧をはじめ、田口・関根・川端・川原・日輪寺・青柳・龍蔵寺・上細井・下細井・北代田・下小出・上小出の旧南橘村十三カ村の郷蔵所在地が示されている(右図×印)。
田口村の絵図(文書館蔵)には荒牧村同様に「郷御蔵三畝六歩」とあり、北に「字郷蔵後」が一筆、南に「字郷蔵前」が三筆ある。江戸時代の郷蔵は移転し建物もなくなったが、郷蔵跡の場所はわかっており、地域の人々に歴史を伝えている。また青柳村の絵図(文書館蔵)にも「郷蔵敷」があり、田口町と同じく青柳町でも郷蔵跡の場所がわかっている。
勢多郡誌に「江戸時代の郷蔵は、本来は年貢米を収納する目的のものであった。したがって、天領・大名領の区別なく概ね各村に設けられてあり、年貢米は一旦ここに収納され、その後に領主の指定する場所へ輸送されるのであった」とある。
(「前橋藩社倉由来并条目記事」群馬県史)によると、前橋藩では貞享二(1685)年に凶作に備えて社倉に貯穀することを勧めている。また幕府は備荒貯穀のために社倉を寛政二(1790)年十月に諸国に命じている。前橋市内には群馬県史蹟に指定された寛政八(1796)年建築の「上泉郷倉」が保存されている。間口八間、奥行三間の平屋建である。また最近勢多郡北橘村でも郷蔵を修復した。
前橋市龍蔵寺町に伝わる「龍蔵寺村日記」によると、天明三(1783)年七月の浅間山の大噴火により、農作物に甚大な被害を与え、各地で打ちこわしや風斗出などが発生した天明の大飢饉の時「社倉麦申年より寅年迄七ケ年分被下置候」即ち安永五(1776)年より天明二(1782)年迄の七年間に郷蔵に貯えて置いた麦を天明三年に使用させる事を記している。また、天明七年にも同じく「卯より未ノ年迄五ケ年分社倉麦十一月中被下置候」と記してあり、困窮者に麦を貸し与えて生活を助けているわけである。
郷蔵に保管して置いた大豆・麦が天保八(1837)年盗難に遭い、同じく弘化三(1846)年には米が盗まれた記録がある。貯穀は麦が主流であったというが、他の穀物も貯えていたらしい。
天明八年に郷蔵の茅屋根の葺き替えに縄・茅・竹等が藩より支給されている記録がある。文化二年にも同様に普請の資材を藩から支給されている。郷蔵は「郷御蔵」と「御」を付けて呼ぶ。藩から修復の資材が与えられ、年貢米の収納や保管、飢饉に備えての貯穀も単に村人が自分たちの為にだけ自由に活用したのではなく、幕府や藩からの指示があって為された事業であった。龍蔵寺村の人々の生活がちらと見えてくる。
荒牧村の郷蔵跡の場所が確定できる情報提供をお待ちしています。