荒牧町自治会と荒牧町生涯学習推進委員会が作製した「荒牧町を歩く」の資料集にある、丸山孝利さんの「開拓者だった祖先」の中に、「昔は草競馬が盛んで、今井清五郎さんのお話によると、川原境寄りに競馬場、さらに旧竹馬幼稚園の西あたりから南にかけて鉄炮馬場(直線コース)があったとのことです」という部分がある。残念ながらお二人が故人となり、詳しくお聞きすることができず、場所の特定ができなかった。
青柳町の白川近くの住宅地にも、まっすぐにのびた道がいかにも、かつての草競馬のあとらしい雰囲気の一画があり、「鉄炮馬場」の地名が残っている。
「『みんなでつづる町のあゆみ』日輪寺町生涯学習推進協議会発行」によると「農閑期に、畑に馬場をつくる。近所から自分の馬を引いて行って、競馬に参加する。馬を愛育することと、娯楽を合わせた田舎行事だった。この近所では荒牧によく馬場が出来て、この日輪寺からも、よく参加した。草競馬といった。」とある。荒牧での草競馬の様子を詳しく知りたいと願ったが、ここでも情報提供者は故人となり、詳しい話を聞けなかった。
大正から昭和のはじめ頃には上小出の総合グラウンドあたりにあった円形の馬場で、競馬が開催された。田口町の塩原総平さん宅では飼い馬が出馬し、その時の景品の桐の箪笥が今もある。参加賞の五色旗も近年まで保存してあったと言う。同年齢の上小出町の栗原繁さんも青年団の一員として競馬を手伝い商品係をしたことがあり、賞品として箪笥・下駄箱など、参加賞に五色旗があったと言う。
近郷の人々が飼育している自慢の馬を連れて行き参加したのだ。競馬場に五色旗がはためき、農閑期の大きな楽しみであったという。
江戸時代後期に惣社町で開催された競馬の記録を見ると、
「 覚
一競馬壱疋 あし毛 馬主 亦右衛門
馬乗 栄 蔵
一同 壱疋 鹿 毛 馬主 亦 七
馬乗 松 五 郎
一同 壱疋 鹿 毛 馬主 新 八
馬乗 菊 五 郎
一同 壱疋 栗 毛 馬主 市 兵 衛
馬乗 孫 四 郎
一同 壱疋 栗 毛 馬主 源 之 丞
馬乗 い せ 松
一同 壱疋 鹿 毛 馬主 善右衛門
馬乗 伊 之 助
一同 壱疋 黒 毛 馬主 五郎兵衛
馬乗 亀 次 郎
〆競馬七疋
享和二(1802)年戌九月十二日」 (旧元総社役場文書)
「差上申一札之事
一競馬 弐疋 惣社町之内新田町
一同 弐疋 粟嶋町
一同 壱疋 鍛冶町
一同 弐疋 巣烏町
一弓箭 野馬塚村 右者例年之通り、惣社大明神祭礼ニ付、右 之競馬差出し申候所、相違無御座候、依之 此段御届ケ仕候、以上
文化七庚午(1810)年九月
惣社町
名主四郎右衛門印
同 孫 三 郎印」
(都木初美家文書 文書館蔵)
古くは天皇や上皇の臨席により武徳殿や神泉苑の馬場で競馬が行われ、遊戯や武芸としての性格が強かったが、後に京都周辺の寺社でもおこなわれるようになり、各地へ広まった。寺社の競馬は天下安全や五穀豊穣を願って奉納さる神事の一つとして行われ、現在でも豊凶を占う流鏑馬式(やぶさめしき)などが各地の寺社で行われている。
上記資料によると、惣社町でも惣社大明神の祭礼の為に例年各町から馬を出し、競馬会が行われた。
「(大競馬会招待状)
(前略)馬頭尊建立に付、円形馬場を新設致シ大競馬会を執行(中略)
明治三十二年十二月 日
三本木村大競馬会
各位様」
(坂本計三家文書 文書館蔵)
明治四十一年二月に藤岡町城山で開催する競馬会開設案内(同家文書 文書館蔵)には、円形馬場三百間(約550メートル)とある。村々で催していた草競馬はまだ鉄炮馬場が一般的であったが、三本木村や藤岡町ではより魅力的な円形馬場にしたのだろう。
「(大競馬会招待状)
(前略)当村相謀り、馬匹改良の目的を以て二月二十四日二十五日雨天順延、当村裏田に於て大競馬会を開催(中略)
大正五年二月 日 多野郡美九里村
神田村大競馬会
殿」
(坂本計三家文書 文書館蔵) 競馬開催の目的は馬の供養の為の馬頭尊の建立や馬の改良を目ざすとし、場所は農閑期の田や城跡の広場だった。上記の美九里村の内の三本木村と神田村は隣接の村であり、藤岡町はこれらの村の中核に位置するつながりの深い地域である。南橘地域でも各大字毎に農閑期に草競馬が開かれたらしいが、同様なものだったろうし、前記上小出の県営競技場付近で開催された競馬会は草競馬からやや発展した競馬であったろうか。
何れにしてもかつては荒牧町でも草競馬が開催され、多くの住民が参加し、楽しんだと思われる。人々のざわめきが染み込んだ場所に立ってみたい。