荒牧まちかど探検(7)

幻の寺・自性寺


 昭和五十九年九月に発行された、「私たちの町・荒牧」の第一章の冒頭に、明治十二年編集の郡村誌からとして、当時の荒牧村には台所・黒岩・瓜畑・萩林等の中に、「自性寺前」・「日輪寺前」といった寺の名がついた字名が見られる。
 地名に残っている自性寺・日輪寺については「群馬県百科事典」に特に「日輪寺に関係した地名が残っているのは、この寺の古さを物語るものである」と記されている。
 日輪寺は言うまでもなく、その規模や寺に伝わる什物からしても、本県が誇る名刹である。
 一方現在の荒牧町にあった「自性寺」については、昭和三十年に発行された南橘村誌によると「寺暦は不詳であるが、口碑によると開山は江戸時代の正保四年(一六四八)に没した権大僧都荘秀法印と伝えられている………以下略」
 日輪寺は現在でも建物等の一部が残り、往時の隆盛を偲ぶことができるが、惜しいことに自性寺は現在「自性寺公園」として名が残るのみである。
 しかし、明治時代初期に描かれた古い荒牧の絵図には「自性寺屋敷三畝」「同観音堂二畝」「同寺二畝三歩」といった区画も見られ、この三ヶ所の区画の周囲には「自性寺前」「自性寺西」「自性寺東」と言う小字名の区画が数多く見られる。
 こうした地名からも自性寺が当時から地域に深く根付いていたと考えられる。
 同寺跡は現在関口政男氏宅となっているが、同氏宅の仏間には立派な位牌が置かれ、隣接した当時の墓地にあった首座の墓も、歴史を物語る六地蔵と共に「荒牧町新田東霊苑」に安置されている。
 同じく同氏宅に豪華な涅槃図が残っているが、この涅槃図をかかげ尼僧が釈尊の遺徳を奉賛追慕する経や講和を行った。
 こうした中での人々との心のつながりが、「尼寺」と親しみを持って呼ばれていた当時をほうふつさせるものである。
 昭和四四年十二月を最後として、自性寺が解体された時、何とこの作業に地域の方々が百数十人も集まり寒空の下で働いてくれたそうである。
 現在では考えられないことであり、同寺がいかに大切な存在であったかを改めて知ることができる。


位牌

首座の墓

六地蔵

涅槃図

解体前の自性寺庵