荒牧まちかど探検(8)

荒牧町に回っていた水車


 昭和20年の終戦以前はもちろん、その後しばらくの間も荒牧町や周辺の地区にも必らず幾つかの水車が力強い音を響かせて回っていた。これらの水車はクルマと呼ばれ、精米、製粉等の動力原として使われていた。町内の先輩方の話では、この町内には少なくとも大小合わせて、4基から5基位はあったと言っている。この中でかなりはっきりしているのが次の3基である。


三葉屋に伝わる古い小旗

関口宅の石臼

養田宅の石臼

 古いものは、現在の下宿の関口維新さん宅が以前「三葉屋」と呼ばれていた製麦業を手広く営んでいた時の水車である。かなり大掛りな水車であり、既に大正時代には稼動していたという記録があり、店先に飾ったとも思われる古い小旗も伝わっている。使われ始めた時期はずっと古いようである。
 昭和12年頃にはかなり戦争色が濃くなり、水車が取り払われて太田の中島飛行機の部品を作る軍需工場に変った。この時に広瀬川から引いていた動力用の水路は、上に厚いコンクリートの覆いがされ、防空壕として使われた。終戦直前の昭和20年8月5日の前橋大空襲の時には、この中に大勢の人々が避難したそうである。この水車に使われた貴重な石臼の幾つかが関口さん宅の庭に飾られており、近くに住む養田和夫さん宅にも見ることができる。


桃川小記念誌に載っている水車

 次は桃川小学校のかっての木造校舎に沿って流れていた小さな水路用の水を桃ノ木川から分かれた延命寺川から汲み上げていた水車である。「桃川小学校創立百周年記念誌」によると、昭和9年5月に同窓会(学校後援会)記念事業として水車及び水路を製作されたとある。この水路の水で生徒達は手や足を洗い、掃除の時には雑巾を濯いでいた。水はきれいに澄んでいたが、真冬には冷たさが手足に凍みたそうである。この水車も、給水設備が整ってきた昭和30年半ばには姿を消した。


荒牧神社に移された碑

アパート ミル・フィール

 最も新しいものは、昭和20年の終戦後間もなく作られた地区共有の水車(新車)と呼ばれていたものである。60キロ(1俵)搗ける石臼が3基、30キロ(半俵)用が4基、および製粉用の石臼が1基据えられていた。この水車も地域に機械化が進められ、その役目を終え昭和38年頃には姿を消した。当時を偲ぶものは少ないが付近には石臼が置いてある家もあり、水車小屋の近くにあった高さ50センチ位の水神様の碑が現在の荒牧神社の境内に移されている。そしてこの水車が回っていた、現在の新田公園の西側に今井道夫さん所有のアパート「ミル・フィール」が建っている。姿を消した水車を後世に残すべく今井さんは意義深いミル・フィール(水車)と名付けた。




 荒牧町の水車については、あまり詳細な記録に目を触れられなかったが、消えたものへの郷愁として、今後とも調べたいものである。