荒牧まちかど探検(10)

荒牧町養蚕の推移


 繭と生糸は日本一

 県都前橋生糸の市(いとのまち)

 上毛かるたの中にこの2枚が詠まれているように、県・前橋共に養蚕とは縁が深い。
 続日本紀に上野国は税として絹を納めた記述があり、古代から生糸の生産が盛んであったことがうかがえる。明治、大正、昭和となっても、本県は長野県、愛知県などと共に全国で生糸の生産量は1位や2位であった。生糸を横浜まで運ぶための鉄道、高崎線や両毛線は東海道に次いで開設された。
 前橋についても、前橋市史によると、「明治2年、前橋藩は横浜本町に敷島屋庄三郎商店と称する藩営の生糸直売問屋を開設している。これにより領内生糸の一手販売を企画したものである。‥‥‥」となっている。更に前橋藩は、明治3年に我が国初の器械製糸所を、現在の住吉町に設立した。明治5年に操業開始の官営富岡製糸場の2年前の事である。
 また、安政6年(1859年)嬬恋村出身の中居屋重兵衛の努力により、横浜港の開港に伴う上州生糸の取り引きは著しく、当時のロンドンで、さげ糸(束ねた糸)が「マエバシ」と呼ばれたという。
 さて、荒牧町の養蚕であるが、明治初頭に編さんされた「上野国郡村誌」によると、荒牧村の繭と生糸の生産量は当時の前橋地区において、上位を占めていたことが記されている。この後の町内の生産量の詳細については数字を把握できなかったが、昭和30年から40年にかけては、ほとんどの農家が養蚕を手がけ、相当の生産量があった。
 荒牧神社の境内に高さ2メートルほどの碑が建っている。この表には「伊勢神宮参拝記念」、「五十鈴製糸前橋出張所長 森 九平書」とあり、裏面には「荒牧五十鈴組合」と組合員38名の氏名が刻まれている。建立は昭和40年1月吉日となっている。そして、この碑は繭の生産を祝して伊勢神宮を参拝した記念との事であり、当時の養蚕の事情の一端をうかがう資料である。しかし、昭和59年12月21日付けの上毛新聞には、「県内の養蚕は危機、減産、暴落、引き下げ、収入70億円も減る」という大きな見出しがある。
 荒牧町の養蚕も漸減し、特に昭和56年頃からの区画整理により、桑園と養蚕家の減少に拍車がかかっていった。昭和61年頃には、町内では新田・東地区の小池張士さん、下宿地区の今井元さん、養田和夫さんの御宅3軒になった。小池張士さんただ1戸は平成13年まで続けた。御名前の通り最後の士(さむらい)であった。


我が国初の器械製糸所跡碑

伊勢神宮参拝記念碑

小池さん宅(二階が蚕室だった)