荒牧町を東西に分ける国道17号線を土地の方々は新道と呼ぶ。これは旧沼田街道に対する言い方である。
前橋市史には「明治22年に前橋・渋川間、前橋・高崎間に新道が開設され、交通は一層便利になった。この砂利道を村民は長い間(新道)と呼び親しんできた。これが現在の国道17号線である。」と記されている。
しかし、整備される以前、明治14年(1881年)頃には、前橋〜渋川間にすでに乗合馬車が走っていた。これはぎょ者が吹くラッパから「テト馬車」といわれ、住民から人気を集めていた。がたがた揺れる乗合馬車に代わり、汽車と同じように鉄のレールを敷き、その上の車体を馬が引く馬車鉄道は明治24年、前橋〜渋川間で営業が開始されている。
更に、明治43年前橋で開かれた共進会を機に電化され、昭和2年から東武鉄道が運行した。チンチン電車の愛称で呼ばれ、沿線の子ども達はレールの上に釘を置き、平らにしては喜んでいたという話しも聞く。
昭和20年代に、荒牧町の北部から、赤城山を背に悠々と走る電車を撮った写真には建物は一軒もないのには驚かされる。しかし、到来した自動車時代には勝てず運転を中止し、40数年間走り続けた電車も昭和29年には姿を消した。
前橋〜渋川間のバスの運行は、大正8年頃には始められていたようである。しかし、本格的な運行は電車の後継者になってからである。
ボンネットバス、木炭バス、箱型バス、トレーラーバス等に、すし詰めになった思い出のある方も多い。そして、これらのバス会社も、東武バスから平成8年には関越交通へと樣変りした。しかし、宇敷木材北側「荒牧新道」というバス停に時の流れを知ることができる。
道路も、大正9年の道路法の施行以来、樣変りし、終戦後の昭和27年に一級国道第17号線に指定され現在にいたっている。
さて、旧道と呼ばれている道は諸説あるが、前橋市史によると江戸時代から開かれた沼田街道である。この街道は、旧向町から広瀬川に沿って北上し、岩神の飛石稲荷の東側を通って、上小出・荒牧・関根から田口を過ぎ、現在の国道17号線を横切って、勢多郡富士見村に入って米野の宿を通過し、沼田に至っていた。現在、荒牧町に、この街道に沿って、上宿・下宿といった地名があるが、この時代の名残りである。
この旧道も区画整理で整備や拡幅が進み、当時の面影はあまり見られなくなったが、人々や物資の移動にとって大変重要な街道であった。そして、その名残りである当時からの「道しるべ」が、区画整理で整備された荒牧神社の入口に、現在でもひっそりと設置されている。
* 電車写真は「写真集・思い出のチンチン電車 伊香保軌道線」より掲載