荒牧町の蔵については、以前にも「荒牧町だより」で触れたが、古くは明治初年に記された荒牧村の古地図に、広瀬川と旧沼田街道に挟まれた現在の下宿のあたりに、五畝二十六歩の広さを「郷蔵用地」として使ったという記録がある。
「郷蔵」は、江戸時代に幕府の指導の下、郷村における備荒貯蓄を目的として、各郷村ごとに建造された穀倉のことである。古地図やかつての地名から、荒牧村の郷蔵の存在は推測されたが、その後の調査で「前橋市史」第3巻の火災の項に「文政10年(1827年)3月8日の火事により、荒牧郷蔵および郷蔵米百三十俵焼失」と明記されている。この時代の倉(蔵)がどの程度の耐火性があったか定かではないが、何れにせよ倉(蔵)が大切なものの保管のために、その後も建造されてきたと考えられる。
わが国の土蔵は、世界にその類を見ないものであるといわれる。その理由として、日本建築は木造であり、火災から財産を守るために土蔵を造ったとは言われるが、世界には木造の民家は決して少なくはない。日本にのみ土蔵が見られるのは、わが国特有の文化によるものであろう。
さて、荒牧町の土蔵の存在は、江戸時代や明治時代について調べるのは難しいが、最近における土蔵は、何といっても区画整理以前と後の様子である。区画整理の前は、終戦直前、前橋が爆撃に遭ったが、荒牧町は焼ける事無く、ほぼ以前からの蔵は残っていた。町内の先輩方の話によると、上宿地区には3軒、下宿地区には10軒、新田・東地区には3軒の家に蔵があったといわれる。昭和58年から始まった区画整理の大事業により、町内の殆どの家が建て替えられ、蔵もかなりの家で壊されてしまった。現在、町内に残っている蔵は、上宿地区2軒、下宿地区に8軒、新田・東地区に1軒だけになった。これらの蔵は、「上屋蔵」・「蛇腹蔵」・「本蔵」などという構造上の名が付いている。
最近造られた民家で、「蔵」が建てられた家は、まったく無いといってよい。わが国古来の伝統技術がだんだんと消えているが、蔵造りの技法もその一つではないかと思うと、寂しい限りである。