荒牧まちかど探検(17)

広瀬川今昔(1)

 わが郷土が誇る偉大な詩人、萩原朔太郎が、「広瀬川白く流れたり、時さればみな幻想は消えゆかん、われの生涯を釣らんとして、過去の日川辺に糸をたれしが‥‥‥‥」という有名な詩を残している。
 荒牧町を東西に分けるこの広瀬川が、文書に最初に現れるのは、江戸時代の貞享元年(1684年)に編纂された、「前橋風土記」であり、次のように書かれている。
 「比刀根(ひとね)川、土地の人は広瀬川と言う。その源は利根川と同じであり、勢多郡箱田で分れて比刀根川になる。水はすばらしく清らかでアユが多い。毎年、秋から簗を設ける。魚は、しばらくの間に何万尾も取れる。‥‥‥‥」といった内容である。
 また、「新・まえばし風土記」の中にも、「よく知られているように、前橋付近の利根川は、かってほぼ現在の広瀬川、桃木川の川筋を流れていたが、十六世紀半ばに大洪水のため、今の県庁裏に流れを変えたといわれている。しかし、古利根川にすっかり流れがなくなってしまったわけではない。それが現在の広瀬川や桃木川になったものなのだろう。
 さて、変流後、初めのうち自然に利根川から分れていた水は、やがて河床が上がるなどの変化によって、だんだん人為的な施設の堰がなければ十分に分流しなくなってきた。」 なお、同風土記は続けて述べている。
 「<建て出し牛枠>という、杭を使った堰が利根川に築かれた。関根町という地名は、いうまでもなく広瀬川の<堰>がそこにあったことからきているに違いない。 堰は、河床の変化に応じて少しずつ上流に上がってゆき、関根町地内から田口町地内に移り、昭和年代には、板東橋近くまでになっていた。
 実際に、関根町の古老の話しとして、‥‥‥‥現在の群馬大学教育学部の辺りに、元斎堰というところがあった。元斎という僧の名前からきたものであるという。元斎は、熱心に治水のために努力した僧であったといわれた。
 しかし、元斎は、せっかく用水として取水した水が地形の関係から、西の利根川の方に漏れてしまう問題地点で、江戸時代から手のかかる場所であったらしい。‥‥‥‥」
 また、荒牧町の先輩も、戦後のころ放課後や畑仕事の後など、広瀬川で水浴びしながら魚を取って遊んだと語っている。コンクリートの川になってからは、すっかり川とは縁が遠くなり、川の中で遊ぶ子ども達の姿は見られないのが残念である。


阪東橋上流の広瀬川・桃木川両堰取水口

荒牧中央公園ふれあい橋から上流方面