荒牧まちかど探検(19)

荒牧町の物いわぬ語り部たち

 昭和33年7月30日付、国土地理院発行の5万分の1の地図を広げてみると、現在の広瀬川の西側、中荒牧地区や団地地区にはほとんど民家は見当らない。旧道に沿って人々の生活が展開されていたのである。
 かつての面影は殆ど目のあたりにすることはできないが、旧沼田街道沿いには茅葺きの民家が軒をつらね、白壁の土蔵が幾棟も並び、かしぐねが棟を囲い、村落の中では水車が優雅に音を立てて回り、曲がりくねった旧街道の辻辻には、誰が寄進したか分からない道祖神や、お地蔵様が道行く人々を歴史の流れの中で永らく見守ってきたに違いない。
 新田公園近くの関口博さん宅の北側の塀には古めいた立派なお地蔵様が祀られている。そしてその足元にも高さ40センチ位の小さなお地蔵様がある。この小さな像には「宝暦九卯(1759年)‥‥」と彫ってある。
 また、荒牧神社の境内にもしっかりとした刻字で、「寛政四年(1792年)‥‥」、「天保七丙(1836年)‥‥」と読める道祖神が立っている。江戸時代の宝暦から天保といえば、250年から170年も以前からじっと無言で我々を見守り続けてきたのである。
 話題は変るが、以前この「まちかど探検」の中で、「明治22年の暮れ、今の下宿あたりから出火した火の手は、折からの強い北西風に煽られ、またたく間に新田地区まで燃えひろがり、この地区一帯は焼け野原になってしまった。」と述べたことがある。
 この火災で不思議なことが起こり、不動様に迫った火は急激に衰えを見せ、この近くにあった角田、都丸の両家と共に大火から無事に難を逃れたとのことである。この不動様が、火伏せの神として一層の信仰を集めたのは言うまでもない。
 一方、火災に遇わなかった角田家にも不思議なものが大切に保管されている。すずり箱位の大きさで、広げると小さな神社のようになる。いつの頃か定かではないが、たまたま修験僧に宿を提供したところ、お礼の印として「何かあったときに飾るように」と置いていったとのことである。
 あの大火の際に立派に火を防いでくれた角田光章さん宅には、今も物いわぬ証人がひっそりと眠っている。


関口博さん宅北側の地蔵様

荒牧神社境内の道祖神1

荒牧神社境内の道祖神2

角田光章さん宅の御守り(御幣?)