荒牧まちかど探検(20)

竹馬幼稚園・ひまわり保育園について

 荒牧町の幼児に対する教育についての資料は明治、大正、昭和初期の間、市史等の中にもこれといったものは見あたらなかった。
 「荒牧町・30年誌」に「荒牧町婦人会のあゆみ」と題して、当時の婦人会長都丸静江さんが、「昭和28年から、託児所が桃川・細井両校で開設された。麦刈り、田植えの農繁期の時期になると、10日間役員が幼児を預かり、講習で勉強してきた童謡や遊戯を教え、保母さんの代行をした。‥‥」という感想文を書いている。この季節託児所が、どのくらいの期間存続していたのかの記載はないが、町内の多くの先輩方は、幼稚園や保育園に通った経験はないようである。こうした施設が町内に無かったのであろうか。しかし、上宿の関口静男さん夫妻が、自分の子供を含めた幼児達が近所に遊ぶ場所が無いことから、一念発起し隣人や身内の暖かい支援を得て昭和32年10月に「竹馬幼稚園」を開設した。
 最初は、自宅の3室を開放し、奥さん、2人の保母さん、33人の園児達のこじんまりとしたスタートであった。その後、保護者の協力や奥さん自身の寝る間も惜しむ努力の結果、遠方からの通園児も増加した。そして昭和41年には待望の新園舎が完成し、園児は最高150人にも達した。
 こうした中、年号も昭和から平成へと変わり、荒牧町は大規模な区画整理や広瀬川の改修等も行われ、諸般の事情が変化する状況のもと竹馬幼稚園は、惜しまれつつ平成6年3月に37年余りの歴史を閉じた。
 一方、「ひまわり保育園」は、町民ではなかったが、小笠原善一氏が昭和43年に、当時の町内の有力者の協力を得て、社会福祉法人「ひまわり保育園」を発足させた。この時は、荒牧団地地区の一区画を占める小規模の建物であったが、折からの町全体、団地地区の発展と共に、急速にその規模の拡張が迫られた。小笠原理事長が、単身で園内に寝泊りして、マイクロバスも自ら運転するなど、園児の育成にはことの外熱心であったとも聞いている。
 やがて同園は、昭和48年現在の団地地区の「ふれあいセンター」のある場所に、立派な施設の移転、拡張の運びとなった。この建物は、やがて団地地区の集会や会議にも利用され、大切なものとなり、内容も充実していった。
 しかし、昭和55年4月29日、上毛新聞が第一面トップの十段抜きの記事として、「前橋のひまわり保育園、突然の閉園=途方にくれる父母・・区画整理で、もつれる」と報じられた。その後、関係者が八方努力はしたが、結局180人の園児を抱えた「ひまわり保育園」の存続はならなかった。しかしこの両園が、荒牧町のために果たした業績は少なくない。


開園後間もない竹馬幼稚園

ひまわり保育園(昭和55年朝日新聞より)