荒牧町を南北に走る大きな街道は、新道(しんどう)と言われている国道17号線と、もう一方は旧道と言われている、かっての沼田街道である。新道については以前に触れた。しかし、今回取り上げる沼田街道については、資料を見ても始めからその道筋がはっきりと決まっていた訳ではないらしい。
例えば、前橋市史・第3巻を見ると「前橋風土記からの引用として、沼田街道は、時代によって部分的にはコースに変動があったようであるが、それを具体的に示す資料が見当たらない。ここでは、村誌類を参考にして、そのコースを示して見る。・・・・沼田街道は、旧向町から、広瀬川に沿って北上し、岩神の飛石稲荷の東側を通って、上小出・荒牧・関根から田口を過ぎ、現在の国道17号線を横切って、勢多郡富士見村に入り米野の宿を通過し、溝呂木から沼田にいたるコースが沼田街道と言われている」と記されている。
また、郷土史家の故都丸十九一氏は、「上州の諸街道」の中で、「戦国時代においては、沼田街道の前身ともいうべきコースが既にあったのではないかと指摘している。すなわち、越後と関東を結ぶ軍用道路としての役割を果たしていたと推測している」。その他にも違ったコースが幾つか散見される。
ところで、隣接する吉岡町には伊香保へと続く「伊香保街道」が通り、途中に「野田宿」がある。かってはかなり隆盛を極めたようで宿の中には、本陣・脇本陣・旅籠屋・酒屋・問屋・質屋などあらゆる店が軒を連ねていた。
現在は、かっての面影はないが、平成17年に土地の有志が、以前からの屋号の立派な札を夫々の門前に立てた。通り行く人々は一様に驚き、江戸の昔にタイムスリップした心地になる。万年青屋、茗荷屋、桶屋、甘酒屋、鍛冶屋等などの屋号が60軒余り軒を飾っている。
さて、荒牧町の沼田街道についても、上宿や下宿といった地区の名がはっきり残っているので、屋号のついた家がかなり現存していると推察されたが、先輩方の話によると意外に少なかった。この地区は殆どが農家であり「宿」としての形態をとらなかったので、一般の旅籠屋・鍛冶屋・質屋などの店がなく、いわゆる「往還」としての街道であったのが、その理由であると考えられる。
鬼瓦に残る「紋」の通称で呼ばれている家がある。養田和夫さん宅の「やまじゅう」(注1)・関口達夫さん宅の「かねきち」(注2)などで、家紋とは違っている。
しかし少ないながらも紺屋(こうや)・みつば屋などは聞くことができた。しかし、今後の調査によればもっと明らかになるであろう。以前使用されていた関口弥兵衛さん宅に、大事に残されている「藍染」の壺は貴重である。
注1 注2
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