荒牧まちかど探検(24)

荒牧町と碓氷社

 本県が全国に誇る「上毛かるた」の「ま」は「繭と生糸は日本一」である。この事については以前にも触れた。この繭と生糸を全国的な産物へと育てた大きな存在が、現在「世界遺産」に認められようとしている「富岡製糸場」であることは、周知のとおりである。この富岡製糸場は1872(明治5)年10月、維新政府の殖産興業政策の一環として操業を開始した官営の工場である。
 この6年後、1878(明治11)年わが国の代表的製糸組合で、組合経営の先駆となった「碓氷社」が現在の安中市に創始され、本県生糸生産の大きな推進力となり、大正初年には6県下180組合にまで発展した。
 昭和33年3月に編纂された南橘村誌によると、「大正二年荒牧、川原の有志によって有限責任生産販売組合碓氷社南橘組が組織され、組合長高橋富太郎、専務理事矢端伝三郎が就任した。釜数六十、揚返し四十、組合員六十八名で機械製糸がはじめられたが、その後漸次増加し組合員数一七三名となり、釜数九十、揚返し七十八、乾燥所一・・・・・という記事が見られる。
 続いて大正六年には青柳、竜蔵寺、上細井、下細井、北代田等の有志によって碓氷社東橘組が組織され、組合長渋川一多、専務理事塚田成美が当たり操業を開始した・・・・・」ということも記されている。こうして見ると当時の南橘村一帯は、かなりの生糸の生産地帯であったことが推測できる。
 さて、上記の「南橘組」について町内の先輩関口三代八さん達の言葉では建物は現在のつちや製菓店の裏、朝鮮飯店のあたり一帯にあった。かなり大きく間口は、ほぼ50メートルもあり大きなボイラーが備えられ、高い煙突からは盛んに煙を出していた。女工さん達は荒牧地区周辺からの女性が多く、遠くは信州からの人もいて一時はその数150人にも達したとのことである。
 立派な倉庫も作られ、その中から沢山の生糸が石倉町にあった本部へと運ばれた。前橋駅が石倉にあった明治17年当時においても大量に出荷されていったのであろう。
 この碓氷社は「碓氷社々報」という薄手のA4くらいの報告書を毎年配布していた。大正十四年十月十五日発行、第百十三号に「繊度受賞工女報告」として、南橘組では矢端ちよ・小池りん・萩原みきの御三方が二等賞を受賞されたとある。なお、上述の高橋富太郎氏は下宿の高橋茂さんの祖父である。
 新田地区の小池張士さんが、最後まで養蚕に意欲を持っていたことなど荒牧地区も生糸の生産が盛んであったことがうかがえる。かって奇跡の大勝利となった日本海海戦の戦艦の多くが、明治以降の生糸の代金でもあった。


碓氷社南橘組の建物があったあたり

碓氷社々報