荒牧まちかど探検(25)

荒牧町にあった製紙会社

 荒牧町下宿の広瀬川に沿って、(株)武尊山観光開発の事務所と(株)栗原医療器械店前橋支店がある。この両事務所および隣接している何軒かのお宅を含めた一帯にかつて豊和製紙株式会社があった。この会社は集英社などに納品していた。しかし、昭和55年には施設は高崎に移転された。
 さて、この豊和製紙は、以前「荒牧町だよりの荒牧まちかど探検8」で触れているが、下宿の関口維新さん宅が、かつて三葉屋という屋号で、広瀬川の水力を利用し大きな水車を動力原とした、大がかりな精麦場を営んでいた時の敷地を利用したものである。
 昭和13年頃は、日中戦争が始まり戦争色が濃厚となり、翌年水車や精麦場は取り払われ、太田の中島飛行機製作所の部品を製造した関口航空機製作所として日本の航空機産業の一翼を担う場となった。
 昭和20年8月の終戦後は、しばらくの間、関口工芸研究所となり、進駐軍向けの日本人形を作る施設となった。
 その後、再び広瀬川の水を利用した大利根製紙株式会社として再発足し、26年に報国製袋株式会社製紙部と改称した。この当時盛んに発行された少年雑誌の、やや厚手の紙を製造していた。
 昭和33年に前記の豊和製紙株式会社となり、昭和55年までこの会社の営業は続いたが、それ以降は高崎に移転したのである。
 大利根製紙や初期の豊和製紙の用材には、大量の松の木が利用された。現在下宿の養田和夫さん宅の隣あたりには、その用材置場があった。
 前荒牧町自治会長の高橋照夫さん達は、このあたりに住んでいた多くの少年達が、この松の木の皮を剥いでお小遣いを得た思い出があるという話しをしている。
 荒牧町は、東は桃木川、中程には延命川、西には広瀬川などの水に恵まれた自然環境の中で、水を利用した水車、製紙や製糸といった産業が生まれてきたと言えるのではないか。水車、碓氷社、あるいは豊和製紙などの施設は、時代の流れでその跡形も残っていないが、この町の先人たちがこれらの施設のなかで、一生懸命努力していたことは確かである。