荒牧まちかど探検(26)

荒牧町から消えつつある焼印

 終戦後の混乱期を経て、世界の人々が驚くような回復を遂げた我が国の経済は、その後も引き続き素晴らしい高度経済成長期を迎えることとなっていく。我々の生活の中においても、家庭用電化製品の普及や農業の分野でも脱穀機、農業用トラクター、米機、そして自動田植機にいたっては、それまでの生活を一変させていった。
 一方、こうした生活の変化の中で、これまで使われていた日常の生活様式や身辺の道具、汁器、農業用器材などで、我々の身の回りからその姿を消していった物は、決して少なくはない。その一つの例として、焼鏝(やきごて)または「焼印」を挙げてみた。焼印は、百科事典によると、「焼印は火で熱し、木製の道具や木箱、材木に印をつける鉄製の印である。印面を細長い鉄柄の先に直角につけ、手元に木の握り柄をつけたもので、印判ともいわれる。……」
 また、古い史料によると「慶雲4年(707年)続日本紀の中に官牧の駒や小牛に用いる鉄印が給されている。駒では左股の外側に、小牛では右股の外側にそれぞれ「官」の字の焼印を押すことが定められていた。官牧所属の牛馬は、焼印を押すことにより正式に登録された。この焼印は官の所有、管理下にあり他の牛馬と明確に区別するためのものであった。」
 焼印の歴史については、この史料が最も古いものとされているが、古代の史料にみえる焼印は、すべて牛馬に押された畜産印に限られているようである。しかし、すこし後の史料の中には升(ます)に押された記述もある。このように焼印は牛馬用のものから、木器にも使用が広がったと考えられ、勅使牧、官牧の衰退とともにしだいに各地に独自の図案による焼印が使用されるようになっていった、という記録も残っている。
 さて、荒牧町においても、つい最近まで焼印は使用されていたようである。農家、商家、あるいは一般の家庭において、木製の汁器、農機具などに付けられていた。関口維新さん宅の五つ玉の算盤には焼印が押してある。その他、升・鎌・下駄などにも見られた。ただ、こうした焼印は比較的簡単な図案で家紋ほど複雑ではなかった。関口達夫さん宅ではの下に吉の字を組合せた簡単な「かねきち」を使用してきた。
 これらの焼印は前述したように、生活様式の変化や、なかでも旧荒牧地区全体に及んだ区画整理によって殆ど散失しているのが惜しまれる。


関根町にあった焼印