荒牧まちかど探検(29)

荒牧町と中宿

 渋川へ通じる現在の国道17号線を、以前からの土地の方々は新道と呼ぶことが多い。バスの停留所にも「荒牧新道」がある。そうなると旧道ということが当然考えられる。この旧道が区画整理以前に荒牧町を南北に走っていた「沼田街道」である。今ではこの街道の面影を偲ぶ場所は、あまり残っていない。

 さて、この沼田街道は、なかなかはっきりしない街道の一つであると言われている。「群馬県百科辞典」、「上州の旧街道」、「沼田市誌」、「上州の旧街道・いま昔」等の参考資料を調べて見たが、全部判ったとは言えない。肝心のいつ頃に開通されたという明確な記述も見つからなかった。
 まず、都丸十九一氏によると、「沼田街道は象徴的にいえば沼田の殿様の参勤交代の道路である。が、それだけのものではない。赤城山の西麗、利根川の東岸に古来開けた路である。沼田盆地と、上州の平坦地域をつなぐ交通路であるところに意味がある。

 古来この地域には、いく筋かの交通路があったが、結局は2筋に固定できると言える。・・・・・・」
 「この街道の起点は前橋市本町の八幡神社と言われている。旧向町を西進した後岩神町の飛石稲荷神社の東を通過し、荒牧町の荒牧神社前の三叉路で東西に別れる。富士見村方面から北上し沼田に至る経路(東通り)と、(西通り)と言われる同じ荒牧神社から西に分岐して、桃ノ木川右岸を北橘村方面に関根町新町を北上する、2つの道筋へと別れていく・・・・」と群馬県歴史の道調査報告書に述べられている。

 次に、この沼田街道ははっきりしない点があると上述したが、その一つがこの街道は地域によって呼び名が違っている。明治10年に発刊された町村誌による沿道の村々に記されていた呼び名は次のようである。
 (沼田街道)・・荒牧、川端、日輪寺、米野、持柏木 (沼田道)・・関根 (清水越往還)・・荒牧、上小出 (沼田東入道)・・田口、 (沼田通東往還)・・津久田 など8例に及んでいる。

 最後になるが、かっての荒牧村も立派な街道筋であり、現存する上宿・下宿の間には中宿があったに違いないが、明治8年に発刊された「上野国郡村誌」の中の勢多郡荒牧村の字の中には、上宿と下宿はあるが中宿の記載はない。しかし、少なくともかなり最近まで「中宿」という地区名を書いて、大正年間になっても手紙の宛先にも使われていたという先輩がいる。これも2つの宿に吸収された「中宿」の沼田街道の隠れた変化であろうか。


上小出より北進した沼田街道は旧荒牧神社前で二手に別れた

旧荒牧神社前にあった道しるべ「北八崎へ□里・・・」とあり東回りの
道を指していたか

西回りの道は荒牧を出るとすぐに関根村新町に駅が設けられた(群大正
門北)

「安政四年・・」とあるので1857年の設置であろうか、次に田口、真壁
へと行った(左碑側面)