明治7年、地方の実態を知るために、明治新政府は太政官布達により全国に村誌の編集を命じた。群馬県も当時の1200村を鋭意調査し、「上野国村誌」作成の上、中央政府に進達した。この郡村誌の「上野国勢多郡荒牧村」の項の「字」には最初に「台所南ハ本村ノ西南隅ニ位ス南ノ方上小出村境ニアリ西ノ方ハ群馬郡川原島新田ニ隣リシ東ノ方ハ兵吉川ヲ隔テ字萩林ニ接シ北ノ方字台所ニ連ル東西壱町四十間南北二町三十間」と記されている。次いで「台所・台所東・台所北・黒岩・傘松・堰下・・・・青柳西」まで29字が上述台所南と全く同様に、位置、境界となる字、東西や南北の巾が細かく記されており、この内容は郡内の他村も同様である。
さて、荒牧町公民館収蔵の野帳(やちょう)は、税徴収のための検地帳の重要な台帳となるが、これらは壱号より二十三号(三号は欠)まで22冊ある。この中の23冊の内壱号には、臺所・臺所南・臺所東・臺所北・黒岩・傘松・堰下・源斉の字について1番より46番の地番が付けられている。
なお、前橋地方法務局で調べた結果、現在の前橋市しきしま老人福祉センターの西隣が「1-1」番地となっている。そして平成5年度に伊勢崎市に移転した、かっての群馬県総合教育センターの住所は「前橋市荒牧町字臺所南1-1」であった。
さらに、これらの地番の中で興味深いのは、今では荒牧神社に合祀された神社に名が幾つかの字内に見られ、かっての場所が偲ばれる。先ず上宿の八幡社、宿後の諏訪社・伊勢社・庚申塔、伊勢東の八幡社、八幡前の薬師堂などが記されて、それぞれに地番と反別が表示されている。これらは明治初年頃に作成された「荒牧村絵図(群馬県立文書館蔵)」にも記載されている。ちなみに、現在の荒牧神社境内の記念碑には、この社は宝暦年間(1751年~1764年)に建立されたと記されているが、町内の先輩方はお伊勢さんと呼んでいたことから勿論荒牧神社になったのは明治40年からのことである。