今年もまた屈辱的な8月15日が巡ってきた。昭和20年(1945年)8月15日以来既に69回目の終戦記念日である。
玉音放送で終戦を告げられた日、文字通り日本全土およびこの前橋市の中心部も全て焦土と化していた。昭和16年12月8日の大東亜戦争(第二次世界大戦)勃発以来当初1年位は米軍を圧倒していたが、早くも翌17年4月18日航空母艦から飛び立ったノースアメリカンB25爆撃機により、東京・名古屋の大都市が初空襲を受け驚かせた。この後は圧倒的な物量作戦と日本側の戦術・戦略の手違いにより、悲惨な敗戦となってしまった。
昭和39年3月31日付発行の「戦災と復興(前橋市)」と昭和16年4月17日付発行の「岩神風土記」から抜粋すると「・・・・前橋市には19年12月23日に当時の超大型爆撃機B29が初来襲したが幸いに被害は無かった。しかし、20年7月10日艦載機約70機の編隊が来襲し、前橋市は激しい機銃掃射が繰り返され、ついに死者2名、半壊家屋10戸の被害が生じた。この時はグラマン・ロッキードであった。次いで7月30日には、16機の艦載機による襲撃を受け、市内では死者1人、南橘地区では死者5人、重傷者2人、小火災1戸等の損害が生じた。
そして終戦のわずか10日前運命の8月5日を迎えた。この日はよく晴れた蒸し暑い日であった。陽がとっぷりと暮れた午後9時けたたましくサイレンが鳴った。92機のB29大型爆撃機による約1時間15分におよぶ本格的な前橋への猛爆であった。
戦後の米軍からの記録によると、この夜市内に落とされたのは焼夷弾など各種の爆弾の総量は723.8トンという膨大な量であった。その結果死者535人、重軽傷者600人、全半焼家屋1万1千518戸となり市内を一変させた。燃え上がる炎は天をも焦がすような勢いで、かなり遠くの市町村からも見えた。市内は阿鼻叫喚の巷と化し闇とあいにく降りだした雨の中を人々は必死に逃げ惑った・・・・。」
さて、先輩方の話によると、荒牧町内への影響も大きく夥しい人々が下小出や上小出方面から旧沼田街道を辿って夢中で避難してきたと言う。当時は広い蚕室用の部屋を備えた農家が多かった。市内の住人らしき人々が火と雨を避けものも言わずに飛び込んできた。家中が人で溢れ、家人も入れない状況もあったと言う。逃げて来た人々は赤く染まった我が家の方向をただじっと凝視していた。
荒牧地区内にも相当数の防空壕はあったが家人や隣人で溢れ、中に入れてくれ、いやもう入れないと言う押し問答が繰り返されたという。確かに荒牧町内は住宅こそ焼けなかったが、市内同様8月5日の夜は相当の混乱に陥った。町の先輩方は当時のことを、まるで昨日のようにその状況を思い出すと言っている。