荒牧まちかど探検(34)

荒牧町公民館所蔵の野帳に見る記録名

 荒牧町公民館には、明治時代初期に記録された貴重な野帳(のちょう)が、大切に保存されている。この野帳は、江戸時代に確立した農民に対する年貢(田畑に掛かる租税)の微税の検地のものである。昭和54年に柏書房より発行された「古文書参考図録」には「‥‥検地は縄入・竿入ともいわれ、各農民の一筆毎の田畑を測量し、その結果得た石高を集計し、村単位の総地積・総石高を調べる土地調査である。

 検地には居検地、廻検地、地押(反別のみを測量して、従来の検地の適否を調査する)などの種類があり、その実行には任命された検地奉行が統括し、村役人により検地条目にもとづいて実施された‥‥」と記されている。この結果作成されるのが検地帳であり、野帳は言わばこの検地帳を作成させるメモ帳的なものであった。しかし、荒牧町所有の野帳をみると、単なるメモ帳とは懸け離れた精密なものである。先ず記入方法は一筆毎の区画を毛筆で図示し、多い場合には40以上に髪の毛ほどの細い線で分けられ、その区分の一つ一つに、これまた虫眼鏡でないと良く見えないほどの「イロハニホ‥‥」が記入されており、その記入たるや驚嘆の一言に尽きる。

 所有者名の入った田や畑が圧倒的に多いのは勿論であるが、現在の荒牧町には全く見かけない地目が驚くほど多種にわたって細かく記入されている。この中で、特に目を引いたのが、下宿の項に見られる「元郷倉敷」である。この郷倉は天明の大飢餓の後、各村に有事に備える貯穀用の共同穀倉であった。町の先輩の話では、そうした倉があったらしい程度に伝わっているが、このように記録が残っているので、実際に存在したことが判る。

 上宿に「高札場」が設置されていたという記録がある。高札場は所謂御触書を伝える場所で、人の往来も住民でも賑わった場所に置かれたと推察され、上宿の繁栄ぶりが窺える。現在その多くが荒牧神社に合祀されている、天神社・八幡社・八幡社(所有地)・薬師堂・伊勢社・庚申塔などが村内のあちこちに記録されている。また一際目を引くのが、日輪寺の寺領地が非常に多い。日輪寺の格式の高さのあらわれではなかったかと推測できる。

 最後になるが、林・竹林・芝地・荒地・水車用水路・石置場・桑原等が記録されている。以前は殆どの家でみられたが姿を消し、区画整理以降全く目にしなくなった。しかし、昔を偲ぶこれらの名残がかって何処にあったのだろうかと思いをよせて旧沼田街道を歩くのも一興であろうか。