荒牧まちかど探検(35)

荒牧神社と野帳(のちょう)

 荒牧神社本殿の西側に秋葉神社を筆頭に、八幡宮・水神社・八坂神社・愛宕神社・雷電神社・菅原神社・三峰神社(天満宮ー石碑)の石宮(いしのみや)の八社が祀られている。そして入口の記念碑によると、明治40年に公布された「神社合併令」の一村一社の方針のもと、「神明宮境内に八幡宮と諏訪神社(末社八社を含む)を合祀して村社荒牧神社とした」と記されている。しかし上記の八社とは異なり三峰神社ではなく赤城神社が入っている。

 また、明治8年国からの通達により編集され、内務省地理局へ提出された「勢多郡村誌」の上野国勢多郡荒牧村の中の「社」の項に「村社として諏訪神社と神明社が宿後にあり、上宿の西に八幡社がある」という記述があり、記念碑の最初に見られる三社と合致している。

 次に、明治時代初期に記録された検地帳の基になった野帳に幾つかの社に相当する名称がある。先ず「瓜畑の観音堂」、「下宿の天神堂と八幡社」、「宿後の伊勢社と庚申塔」、「八幡前の薬師堂」、「自性寺前の八幡社」などである。これらは全て荒牧神社にある石宮と一致するものではないが、野帳が記録された当時の検地の見方の一端を窺い知ることができる。

 何れにしてもこれら上記の社が、どこにあったのか、現在のような石宮か、新田地区のお不動様のように建物があったのかはっきりしない。赤城神社の宮司さんにお伺いしても細部については分からないとの事であった。しかし、かつての沼田街道の荒牧村の辻々の一角にこれらの多くの社が祀られていたことは、村人たちの信仰と相俟って興味深い。ただ、有難いことに下宿の関口博さん宅の北側の塀に208年前のお地蔵様が昔と変わらぬ姿で。道行く人達を見守っている。

 区画整理の際に、殆ど残った石宮や庚申塔なども、荒牧神社に合祀されたが、このお地蔵さまだけが当時の風情を伝えている。江戸時代から明治時代への移り変わりの中で当時の荒牧村の証しは残して行きたいものである。


入口の記念碑

菅原神社

三峯神社

お地蔵様