荒牧まちかど探検(36)

荒牧から荒牧町へ

 荒牧町の西北部に現在の渋川市有馬がある。この地は以前古巻村大字有馬に相当すると言われ、付近には「駒寄」もあり、吉岡村誌によると「当村には、駒寄という地名がある。駒を集めたところと伝えられているが、近くに有馬の牧があり、荒牧という地名もある。これらから考えて当村は馬の飼育にかかわるものと考えられるが細部については知ることはむずかしい。」
 元群馬大学尾崎教授によると「古巻は古牧にも通じ、あらまきは現在荒牧という字が当てられている。これは一見荒廃した牧場を連想させるが、古牧に対し新牧から荒牧へと変わったのであろう‥‥」と述べている。
 荒牧神社の入口に荒牧神社の由来という碑がある。その前文に「源平盛衰記に源義経は上州荒牧という所にいて云々」とある。源平盛衰記は無論鎌倉時代の書物であるから、この時には既に荒牧という名が使われていたことが推測できる。
 荒牧公民館所蔵の野帳によると、「第三大区一小区勢多郡荒牧村」の記録がある。この区割が定められたのは明治5年からで、この野帳が作成されたのは恐らくこの頃であろう。しかし、荒牧村としての地名がみられるのは江戸時代初期に記録された検地帳の一種の「寛文郷帳(1668年)に荒牧村石高545石」となっている。これによると「荒牧村」は江戸時代の初期には存在していたと考えられる。
 明治8年、国からの通達により明治9年1月までに全国に各村誌の提出が求められ、「上野国郡村誌」も編纂され提出された。この郡村誌の中の上野国勢多郡荒牧村の欄には、台所南から始まり青柳西に及ぶ30の字名がある。
 昭和29年に施行された新制度により、南橘村大字荒牧は独立した荒牧町となった。現在荒牧町は団地・上宿・下宿・中荒牧・新田東の5地区に分かれている。この5地区の分け方はいつ頃どの様な経緯で決められたのか定かではなかった。しかしその中で団地地区はかなり新しい地区名であろう。
 この5地区に郡村誌に見られる30の字名について町内の年配の方々に伺ったところによると、順番に台所南・台所・台所東・台所北は団地地区に、黒岩・傘松・堰下・源斉・瓜畑・西窪は中荒牧地区に、萩林北・萩林・上宿は上宿地区に、天神後・下宿は下宿地区に舟戸西・宿前・宿後・伊勢東・中反保・八幡前・舟戸・小出後・舟戸前・舟戸東・自性寺前・日輪時前・欠田・東原・青柳西は新田東地区になり、荒牧町のスポーツ大会はこれらの5地区の対抗で行われている。
 この30字の中で上宿・下宿は地区名に、自性寺は公園名に、源斉は源斉堰など現在も使われているが、だんだんと耳にすることが少なくなってきている。しかし、かつての字名はそれなりの意味を表している。例えば伊勢東・八幡前・天神後などは荒牧神社の東・前・後を意味していると思われる。こうした地名は後世に残し伝えたいものと考える。


荒牧神社の碑文

古巻村有馬の牧と考えられる場所

荒牧の元となったとされる旧古巻村