荒牧まちかど探検(37)

荒牧町に以前あった商家

 旧沼田街道は前橋市史等の資料によると、「沼田街道は‥‥飛石稲荷の東側を通り上小出、荒牧、関根から田口を過ぎ現在の国道17号線を横切って‥‥」とある。
 これらの上述の四つの宿の詳細については、明治8年6月に国からの通達を受け、本県でも明治10年に「上野国郡村誌」が編纂された。
 この郡村誌の内容は多くの項目にわたって調査され、これら4ヵ村の内容も非常に多岐に及んでいる。
 この中で荒牧村には他の上小出・関根・田口の三村に見当たらない項目がある。それは「物産、清酒350駄位」というものである。
 ちなみに広辞苑によると、酒1駄は3斗5升入りの樽2樽のことである。これを見ると荒牧村には明治10年当時既に2450斗の酒を生産する酒造所があったと考えられる。
 この酒造所は、実は下宿の関口博氏宅で、同氏の話では江戸時代は酒を造っていたという書類も残っている。屋敷も相当広く、自分の家で使う大きな井戸もあったということであり、同氏の家が酒造所であったと考えても間違い無さそうである。
 残念なことに、明治22年12月、現在の下宿から発生した大火により酒造所も焼け落ちた為廃業となってしまった。
 次に上宿の関口弥兵衛氏宅の入口に高さ1.3m余り、径40cm余りと、これよりやや小さいが古色蒼然たる立派な壺が二つ並んでいる。同氏の実家は以前から「こうや」と呼ばれている。こうやは無論「紺屋」であり、昔から実用の着物として愛された藍染めの布を作っていた。染め上げた布は主に渋川より奥の地域で売られていたとの事である。
 少し高くなっていた土間に10箇位並んでいたこれらの壺は区画整理の際殆どが処分されてしまったが、二つの壺は同氏が大切に保存していたために、立派な歴史の証人になっている。同氏の話では創業と廃業の時期は定かではないが、矢張り明治時代ではないかとの事であった。
 故人になられたが下宿の関口維新宅も通称「くるまや」と呼ばれ、広瀬川から取り入れた水力で、遅くも明治時代より大きな水車を回し精米業を営んでいた。この水路は戦時中に防空壕として使われ、多くの人が避難したこともある大きな水路であった。屋号は「三つ葉屋」と言われた。
 戦時中は、中嶋飛行機工場の分工場となり精米業は中止せざるを得なかったが、製紙場などを経て今でも「三つ葉屋」の屋号は立派に残っている。
 以上の三商家は現在では全くその跡さえ分からず昔のよすがを偲ぶことは出来ないのが残念である。かっての沼田街道の宿に存在し、立派に村の存在感となっていた創業家であった。


関口弥兵衛氏宅入口の藍瓶