荒牧まちかど探検(38)

荒牧町と上小出町とのつながり

 上小出町の栗原繁氏作成による「上小出町古尋録」の中に荒牧町と上小出町の間に幾つかの接点のあることが見受けられる。この古尋録は上小出町に伝わる古文書等をもとに作成されている。

(1)かつての上小出村が輩出した著名な国文学者で俳人でもあった藍沢無満が安政4(1775)年に生まれている。幼名は茂造と言い、無満はその号である。後に寺子屋で学問を教えていたが、俳諧師匠の名声を慕って、師事する者が300人を越えた。その中には農聖船津伝治平もいたとの事である。
 無満は2歳で母と死別し、母亡き後、北橘村字八崎の某家(氏名不詳)に預けられた。その後9歳の時に「隣村荒牧村の造り酒屋関口長吉宅に預けられた」と言う記録がある。現在下宿の関口博氏宅は、荒牧村唯一の酒造家であったとされてきたが、この記録によると改めて、この事実が実証されたことになり、この両村のつながりが見えてきた。

(2)桃川小学校沿革史によると、明治6年12月日輪寺村の日輪寺に設けられた。
 上小出村には明治6年9月7日に香集寺の住職が、他に先駆けて上小出独自の「県令認可公立小学校」を開設していた。だが2年後の明治8年9月、児童数が少ないため、桃川小学校に合併された。翌年の明治9年2月小出小学校は分離し、同11年1月再び桃川小学校に合併され、翌12年1月またもや小出小学校は分離している。
 なぜこのように合併分離を繰り返していたのか、多分当時の村人は15丁(約2㎞)もある遠い日輪寺にあった桃川小学校まで、幼い子供達が雨の日、雪の日木枯らしの強い日に通わせるのが可愛相だと考えたのであろうか。
 その他、明治12年2月、南勢多郡上小出邨(村)が小出小学校の独立を希望するため「当村小学校再立御願」を県令宛に提出した書類が残っている。興味深いのは当時の県令が、今NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に登場しているあの「楫取素彦」だったことである。

(3)寛保元(1741)年から2年続けての利根川の大洪水の頃と思われるが、広瀬川左岸近くにあった墓所が流されるというので、広瀬川右岸の小高い「字荒牧境」に急遽移したという。この字は荒牧村に隣接している上小出地区にあり、直接荒牧村の地域ではない。
 昭和61年区画整理事業で造成された第1号霊園に流失を免れた「荒牧境墓地」の墓石が移され、その墓石の傍らの過去碑には次のように刻まれている。「上小出村字橋端にありしが、天文8(1539)年利根川の大氾濫以来相次ぐ洪水によりその地を荒牧境に移し、今日迄300年余を閲したるところ、昭和61年上小出町区画整理事業の施工により、祖先の墓域を改葬し、ここに霊を祀る」となっている。

 岩神の飛石稲荷から上小出村を通り荒牧村を抜けていったかつての沼田街道の存在により、上小出村と荒牧村は何かにつけてつながりがあったのではないか。


桃川小学校沿革史と上小出町古尋録の表紙