今から44年前、昭和47年12月に発刊された百周年記念誌には、70人余りの卒業生が「思い出」として寄稿している。桃川小学校は市内でも歴史が古い小学校で、明治6年12月に設立された。従って寄稿された卒業生は明治末期から大正期にかけての方々の名もある。目を通して見ると、これらの古い方々の文は全部が全部正確な記憶の元に書かれた訳でもないようで、一部時間等が入れ替わっているところもある。しかし、内容的には現在では考えられない興味深い箇所もあり、桃川小学校の表には出ない一面が伺える。
(1)私は明治四十年日輪寺にあった旧校舎(現萩原福三郎宅)で卒業した。その後大正二~三年頃友人と相計って夜学校を開いた。純農村地区であったので、一月~三月迄の農閑期を利用した勉強会で三年間程続いた。
(2)私は明治三十八年に入学した。一年後には新校舎が荒牧に完成した。その後明治四十三年に義務教育は今迄の四年間から六年制となりはじめての五年生となった。
(3)大正二年三月に尋常科を卒業した。義務教育であったが、高等科は義務教育ではなく月額二十銭を払っていた。上の学校へ進学者は少なく、級で四~五人位であった。
(4)大きな思い出の一つに秋の運動会があった。中でも団リレーは全校挙げての力の入った競技であった。団名は当時の校訓よりとった「忠実」「勤倹」「推譲」の三団であったが、後に赤城・榛名・妙義・浅間となった。
(5)明治三七年に入学した私は修学旅行にも強い思い出がある。明治四三年の六年生の修学旅行は伊香保温泉への一泊旅行で、学校から伊香保まで徒歩で往復した。帰りの道は阪東橋の上でとても疲れ、足が非常に重かった。
(6)小学校の六年生の修学旅行は吉見の百穴に行ったが、足を強く「ねんざ」してしまった。家族から離れた宿で、寂しさと痛さで一晩中泣いていた。
(7)校門に向かって延命寺川が流れていた。今ではコンクリートで整備されているが、古くは草木が覆って茂るままの小川であった。私たちは「うめじ川」と教えられそう呼んでいた。
(8)小学校の時食料に乏しく、弁当はたくあんや梅干し位しかおかずは入っていなかった。昼ちかくになると火鉢で弁当を暖めたので、教室中たくあんの臭いがたちこめていた。
(9)戦後食糧難の時に、小学校で豚や牛を飼っており、生徒達が当番制で餌を与えていた。ところが突然豚がいなくなってしまった。皆でしらべたところ先生方が食べてしまった事が分かった。男子生徒達はおこって日輪寺の境内に集まり一斉に登校拒否をしたことがあった。
(10)校門を出た国道十七号線はまだジャリ道で、風の強い日には砂ぼこりがたった。この新道には鉄道馬車が走り、目かくしされた馬が「ベットウ」のムチでおとなしく走っていた。ところがある日田口の神社の辺で馬車に飛び乗った男の子がベットウにどなられ飛び降りた時に片足のすねのところがもがれてしまった事もあった。
(11)大正十一年頃、校庭に奉安殿があり、毎日登校の際に敬礼していた。祝典の時には教頭先生がこの中から御真影と教育勅語を出してうやうやしく捧げ、肩をいからせながら歩く姿が目に浮かんでくる。この奉安殿は戦後には上細井の消防暑の向かいの八幡山に「南橘聖霊廟」として保存されているとの事である。
******
これらの寄稿文から日清・日露戦争に続き、日本中が焦土と化した大東亜戦争を経験した方々の生々しい体験や苦労が特に目を引く。確かに明治時代の後半から大正・昭和25年~6年頃までは、わが国の大部分の国民は貧しかった。児童・生徒は碌な衣服も着られず、弁当も梅干しや沢庵が精々であった。親達も育児に大変苦労をした様子が伺える。子供たちの遊ぶ所も川や沼・林等に限られていたが、大変な状況の中でもどことなく大らかで暗い雰囲気はさほど感じられない。皆が苦労をする中で助け合いやつながりがあった。こうした事により僅かな年月の間に世界中を驚かせた経済大国へと我が国は登って行ったのではなかろうか。