荒牧まちかど探検(41)

明治期の桃川小学校建築記録

 桃川小学校は明治6年12月、当時日輪寺村に仮設校舎を設け開校された。「桃川小学校百周年記念誌」によると、「その後幾度かの増改築を経て、明治39年4月に現在の桃川小学校の位置に新校舎の一部が落成し、日輪寺村にいた尋常科の児童達五学級が移動、次いで明治41年9月には新校舎の全建物が完成したので、日輪寺学校にいた全員が現在の桃川小学校に移動し、日輪寺学校の役割は終了した。」と記録されている。しかし、何故当初日輪寺村に創建されたのか、何故現在の場所に移転したのかについての資料は見つからなかった。だが現在、荒牧公民館に残っている桃川小学校の建築に係わる資料から、幾つかの事柄は垣間見ることが出来る。
 (1)明治35年12月に作成された「桃川小学校寄付金控」には、寄付された方々の氏名は無いが、用意された金額は「右金壱百五円八拾銭也ヲ三拾七年四月六日、貯蓄銀行預ケ入ニ成ル」とあり、用途については既に用地の確保も着手していたことも伺える。ちなみにこの当時の百円は現在の物価指数に換算すると大体15万円位になるとのことである。
 (2)明治37年「桃川学校費人名帳」には89人の氏名と一人一人の寄付金額が記され、「合計四百拾参円七拾弐銭弐厘」となっている。
 (3)明治38年7月「桃川小学校新築寄付金差引勘定帳」には85人の寄付者一人一人の金額と分割納入の様子が書かれている。
 しかし、これと並行して記載されたと思われる「寄付金名簿」には国税割・等級戸数割・平戸数割という区分で割り当てられている。寄付金の総額は「計千弐百七拾壱円四十四銭」である。工事が始まる前年でもあり、かなりの高額な寄付を募ったのであろうか。
 (4)と(5)の2冊は明治40年3月及び4月に続けて記載されている。
 先ず3月の「桃川校新築費割当帳」には一人一人の記載はより克明になり、地租(*現在の固定資産税に相当)所得税・営業税・等級戸数割・平等戸数割(*各戸同額)といったかなり細かい金額で割り当てられている。また、4月の「新築費割人名帳」には102人の氏名があり、「一金千参百拾六円参拾弐銭也」の金額が寄付されている。41年の完成に向けて本格工事のため、矢張り多くの資金を必要としたのであろうか。
 明治42年10月の「増築費割当元帳」が最後の記載となっている。41年に校舎は完成したが、やはり必要としたのであろう。この帳簿も勿論細かい区分で割り当てられており、地租等も勘案され、合計金額は「六百九十六円七十二銭五厘」である。
 最後になるが、かつての荒牧村のみならず他の市町村も乏しいやりくりの中から寄付金を集めることに大変苦労したに違いない。しかし、荒牧村は思いの外早くから準備をしていたようで、土地なども用意していた記録もある。ここで興味がひかれるのは、当局に残された記録に「割当帳」ではなく「取立帳」とされている事である。