荒牧まちかど探検(42)

荒牧町の石造物

 荒牧町内のかなりの方々は今でも街道といえばかって沼田街道と言われた旧街道を考えるであろう。都丸十九一氏の説によれば「沼田街道は沼田藩の参勤交代の際の道であり、江戸時代からの重要な物流の役目をはたした・・・・」とある。ところが、この街道は大切な役目を果たしてきた割にはその存在を示す遺跡や石造物があまり見当たらない。しかし、良く探してみると、幾つかは町内にその面影が残っている。

1.新田地区の小池昌男氏宅の庭先に高さ1m程の堂々とした先の尖った石がある。同氏の話ではかっての「舟つなぎ石」ではないかと言っている。確かにこの周辺地区は舟戸・舟戸西・舟戸東と言った旧字名が残っており、かって水運を担っていたと思われる。

2.同じく新田地区には、明治22年12月の大火の際に奇跡的に焼け残ったと言われる「御不動様」がある。この堂の中に高さ50cm程の不動尊が祭られている。その後は火除けの神として長く驚い信仰を集めている。この石仏の傍らに置かれている小さな用材があり、表に「元文元(1736)年」と書かれている。この用材と石仏が同時期のものと考えると「暴れん坊将軍」として知られる八代将軍吉宗の時代であり、約280年前のことである。

3.故人となられたが、下宿の関口博宅の北側の塀に旧街道を往来した人々を見守った御地蔵様と並んで石仏がある。この石仏の側面に「文化四年(1807)年」と彫られている。この年代は十一代将軍家斉(いえなり)の時代で、今から約200年前である。

4.下宿の養田和夫氏宅の庭先に今では全く目にすることが出来ない石臼がある。この石臼も旧街道の傍らで延命寺川の水力を利用して、心地よい音を響かせながら穀物を挽いていた水車の石臼に違いない。

5.同じく下宿の関口達夫氏宅の西の方に同氏宅の先祖を祀る「釈迦堂・十王堂・矢端霊苑」がある。この霊苑はかって村内の3ヶ所にあった霊苑を1ヶ所に集めたとの事である。霊苑の中程に関口氏宅の先祖の墓石が並んでいる中で、古くて正面の戒名は判読できないが、側面に「天保九(1838)年」と彫られ、十一代将軍家斉の時代で、今から176年前である。

6.旧レストラン みやの斜め向かいで、トヨタ自動車駐車場裏手の金網の隅に高さ1mほどの道標が立っている。北側の面に「御大典記念大正四(1915)年」とある。この道標自身はさ程古いものではないが、荒牧神社の大銀杏の下に建てられている鳥居に同じく「大正四年即位大典記念」とある。即ちこの年は大正天皇の即位を祝った年である。

7.荒牧神社
(ア)神社入口の右手に見るからに古そうな道標があり、旧荒牧神社の三叉路から移したもので、旧街道の案内を示すものである。
(イ)石段を上る手前の狛犬の右側にある石灯篭の裏側に「享和元(1801)年」とあり、「家斉」の時代で今から215年前である。左側の石灯篭の後ろには「明治十(1877)年」と記されており、左側の方は新しく設置されたものと    みられる。
(ウ)鳥居の近くに置かれたどっしりとした重量感のある「清場」と彫られた手水舎は「明治十(1877)年」とある。この年は荒牧村とは直接関係は無いが、発足後間もない明治新政府を震撼させる事件が起きた。一万五千人の兵    を率いた西郷隆盛が鹿児島を出兵し西南戦争の始まった年であった。
(エ)社殿西にある数多い庚申塔の中で一際大きいのが7基あり、最も古い塔は「寛政四(1792)年」これも家斉の時代で、今から224年前である。最も新しいものは、「大正九(1920)年」と読み取れ、大分新しいと言える。

 こうして見ると、荒牧町内には古い石造物は意外と存在していた。もっと探せば隠れた石造物があるかも知れない。しかし、江戸時代以前の石造物を見つけるのは困難と思われる。何れにしてもこうした古いものを真摯に見つめていると、我々の先達の深い信仰心に何か心を打たれる気がする。


1.舟つなぎ石

2.御不動様

3.北塀の石仏

4.水車の臼

5.関口家の墓石

6.即位記念碑

7.(ア)神社入口の道標

7.(イ)神社の石灯篭

7.(ウ)神社の手水舎

7.(エ)神社の庚申塔