荒牧まちかど探検(43)

荒牧神社 祭典の変遷

 江戸時代はさて置き、明治維新の頃、明治八年六月五日太政官通達により編纂され、内務省地理局へ提出された「勢多郡誌」の記録に「上野国勢多郡荒牧村」「・・・・民業:男農桑ヲ業トスル者七十九戸、酒醸ヲ業トスル者壱戸、女養蚕製糸裁縫ヲ業トスル者百三十人」という数が読める。

 この当時の荒牧村はその殆どの家が農業や養蚕製糸を営んでいたと思われ、村全体の戸数は一概には言えないがそれほど多くはなかったであろう。そして同上の郡村誌に「村社諏訪神社 本村ヨリ北ノ方字宿後ニアリ祭日八月二十七日社中杉木アリ」という記述もある。僅かの戸数の本村にも立派な村社が存在していたことが、荒牧神社の由緒書からも推察できる。

 次にこの当時の世情から村民が集う場面としては矢張り「冠婚葬祭」であったに違いないが、より多くの村民が集まる時は神社の祭典であったと思われる。

 ここで一つの資料として戦前の荒牧神社の祭典について「荒牧町30年誌」の中に福田三郎氏が次のような思いでの記を残している。その要旨は「昭和5~6年のことと思いますが、神社の秋祭りを告げる大きな幟が建てられると、子供達の動きが活発になる。神社への奉納子供角力が開催され、当時珍しかった三輪車等の商品が貰えたので連日特訓もやっていた。

 宵祭りは通りに面した家々の提灯がしめ縄で飾られ、当日は露天商が道路の両側に軒を連ねた。夜は青年・壮年の八木節踊りで、終日賑やかであった。」とあり今では考えられない程の賑わいであったことが、偲ばれる。特に桃川小学校の子供達は、祭典の日は時には学校が休みになったこともあり、休みでないときは学校から一目散に神社に集まったとの事である。

 下宿の養田和夫氏の話によると、祭日の時や正月の参拝の祈りに「この鎮宮(しずみや)に鎮まれり天皇(すめらみこと)の御斎時(みさいじ)を常盤(ときわ)に生きて示すなり」と子供達が一斉に唱った覚えがあるとの事である。又、塩原宮司さんの話では、確かに戦前は子供達にお菓子や鉛筆を配ったとの事があり、戦争中は矢張り「神頼み」あるいは「神信仰」の上からも、国家的に神を大切にすろという風潮があり、特に正月・紀元節などは神社に村民が集まったと語っている。しかし宮司さんの話では幟を立てる支柱は現在の鳥居の脇にあるが、大戦後は時代の流れに逆らえず祭りを中心とした行事も姿を消し、特に神社の移転後は殆どの祭事がみられなくなり、現在残っている「除夜の鐘」や「お焚き上げ」に往時の姿がいまだに根強い信仰を物語っている。 


区画整理移転前の神社

社殿の中に奉納された額、中央の額の左角には明治戊申(41年)九月と読める