荒牧まちかど探検(45)

荒牧村から荒牧町へ

 「荒牧」という地区は以前には勢多郡に属していた。そこで「勢多郡誌」を調べると、「一体、勢多郡という郡が置かれたのはいつであるかというと、恐らく七世紀の中頃、大化の改新の結果であろうと思われる。日本で政治上はじめての大変革が行われて、全国を統括して天皇の治下に画一の政治が実施されるようになった。そして国、郡、里というものを統一して定めたのである。その結果勢多郡という行政区画が起こったのである。・・・・・しかし勢多郡の上代のことについて書き残されたものは極々少ない。」という記述があり勢多郡は意外に古い歴史があった。

 そして、荒牧という地名についても色々と変遷の歴史が語り継がれてきた。この中で鎌倉時代に記されたとされる「源平盛衰記」に源義経が奥州へ下る途中、伊勢三郎義盛という人物に「上野国荒蒔(牧)郷」で出会ったとあり、同時代の「平治物語」では松井田で出会ったとある。そして室町時代の「義経記」には義盛には板鼻で出会ったとされている。

 これらは何れも物語作品であり、史実とは限らないがかといって荒牧郷を含めてすべてが全くの架空の話しとも言えないのではないかと思う。しかし、何といっても「荒牧村」という名称がはっきりと史料に表れるのは江戸時代になってからである。同じく勢多郡誌によると、「・・・・・信長・秀吉の時代を経過し、江戸時代を迎え、近世封建時代を完成した。それは幕府を頂点とした封地関係によって構成された強固な支配体制の下に置かれた。・・・・・関東地方が徳川家康の手に帰した天正十八年以後勢多郡における最初の支配者は平岩親吉が前橋藩主となり、荒牧村を含めた七十八ヶ村を所領した。」との記述が見える。

 「群馬県百科辞典」にも前橋藩についての資料がある。「平岩氏に変わって酒井忠重が慶長六(1601)年に入城し、同じく荒牧村を含め125ヶ村を治めた。次いで寛延二(1625)年に松平朝矩が姫路より入封し松平氏は明治時代まで荒牧村を含め140ヶ村を所領した。しかし前橋藩は11代松平直克のときに明治四(1871)年廃藩となった。廃藩直前の所領は荒牧村も含め111ヶ村であった。」

 明治維新を迎えそれに伴い種々の新制度が実施された。明治22年荒牧村を含め13村が統合され、橘山の南に位置することから「南橘村」が結成された。この時点で江戸時代より引き継がれてきた「荒牧村」は無くなり「勢多郡南橘村大字荒牧」となった。二年後の明治24年の資料であるが、南橘村の戸数は912戸、人口は男2688人。女3000人で、大字荒牧は75戸、男218人、女233人であった。続いて昭和29年9月にこの南橘村は前橋市に合併して村は消失し、各大字はそれぞれ新しい町となり、「荒牧町」等が誕生した。

 昭和59年に、当時の都丸勝自治会長さん、丸山孝利さんが中心となり苦労の末「町制30年誌」が刊行され、町の歴史がまとめられた。現在では上毛大橋の開通、群馬大学の設立等他町の方々からも羨ましがられる町へと発展してきた。なお、市民課の話しでは平成29年9月30日現在、この町(荒牧町自治会区域は異なります)は2547世帯、人口男2655人、女2787人となっている。


勢多郡誌

町制30年誌