元来、土地は地理的には個数という観念がなく連続しているものであるが、社会的にはこれを人為的に区画し、それぞれを一個の土地として、その所有や取引の対象としている。そこで、全土地はどのように区画され、個々の土地はどこにどのような形状をしており、所有関係はどのようになっているかということ、つまり法律上の一個の土地の籍を明確にしておく必要が生じる。すなわち、一個の土地(一筆)ごとに地番をつけ、その地目(田、宅地など)、地積(土地の面積)、所有者等の他、所定の事情を土地登記簿に記録したのである。これは市・区・町・村・字またはこれに準ずる地域を地番区域とし、これに番号をつけた。そして従来の日本では住居の所在を示すのにこの地番を用いる慣習があった。しかしこの表示は日常生活に不便であったので、昭和32年に法律が制定され、市街地にある住居を表示するのには住居番号によることになった。土地の特定性を示すには依然として従来の登記簿上の地番も用いられている。(日本大百科辞典)
さて、我が荒牧町は「ゼンリン住宅地図前橋版」の荒牧町を見ると、かつての「群馬県教育センター」が1番地1となっている。次いで「群馬朝鮮初中級学校」が2番2、「群馬県青少年会館」が2番地12である。3番地は地図にはないが、かつての群馬教育センターの東あたりだということである。
ここで不思議なことは青少年会館と、道を挟んで向かい側にある「軽費老人ホーム」が1154番地2であり、その隣の「前橋市しきしま老人福祉センター」が1154番地1である。道一つ隔てただけで、桁が違いすぎるので、市役所に問い合わせたが不明であった。4番地は「宮下ハイツ」及び「らん美容室」付近である。
かつて一括して売り出された区画、例えば荒牧団地や大蔵団地などは同じような番地が並んでいる。総じて言えば1番地から北に行くにつれ番号は大きくなり、東に行く程また番号が大きくなる傾向が見られる。そして、荒牧町最後の番地は、市役所によると南橘中学校の反対側にある「JA前橋市南橘支所」の前庭の2101番地の12となっている。
こうして見ると地番と現在の番地が必ずしも一致しないことや場所によっては番地の数がかなり離れてつけられていることが分かった。今回は番地のほんの一部しか触れなかったが、番地の奥深さに改めて気付いた。