荒牧まちかど探検(47)

二つの史料から見た荒牧団地地区の発祥時の前後

 昭和55年10月に刊行された「荒牧団地10年のあゆみ」と昭和59年9月発行の「荒牧町30年誌」を比較すると、中々興味を引く内容がある。勿論両者にはかなりの重複の部分があるが、特に団地地区の成り立ちについては、当初からの様子はかなり詳細に知ることが出来る。

 先ず「30年誌」から抜粋すると、『荒牧町の番地は現在の教育センターと老人センターの場所が1番地で、小字は台所と言い、この場所から始まっている。かつては水産試験場の北側の土堤から荒牧・川原道路の辺まで国有地で、幹の周りが1mもある松が生えていた。また現在の群馬大学や荒牧小学校までの土地は、かつては松林のあった丘陵地で荒牧山と呼ばれていた。大正5~6年頃、この松林を荒牧地区に住む全農家86名を代表して有志5~6人により16町歩位の国有林の払い下げの話がまとまり、自分たちの土地を担保にして当時の勧業銀行から総額2000円の借金をして支払ったといわれている。今から50年程前耕地整理法の救済事業による助成金で開田が施行され、その面積は凡そ7町歩であった。工事は昭和8年に完成した。』

 現在荒牧神社の境内に大小2基の開墾碑が建っている。高さ約150cmの碑は大正十三年十月の日付が刻まれ、一方の高さ約170cmの碑には昭和十年四月と刻まれている。これらにより当時の荒牧村は二期に亘って開墾工事が行われたと推測される。

 『荒牧町には共有地が36~37町歩あり、その中の30町歩が耕地(水田10町歩余、畑約20町歩、残り5町歩余が山林原野)であった。そこで昭和36年荒牧山(現在の団地地区)を労働金庫が設立した日本労働者住宅協会群馬支部に譲渡することになり、坪単価は1500円であった。昭和36年には広瀬川の西の中荒牧を含めた耕地整理が完成し、この年に荒牧団地の売り出しが始まり、着工する人も出始めた。分譲当初は「労金団地」と呼ばれた。昭和37年には団地への入居者が増え、荒牧町も次第に人口が増えていった。』

 次に「荒牧団地自治会10年のあゆみ」の中から個人の思い出を抜粋すると、
『①昭和37年頃前橋市に定住したいと考え、案内された所が造成直後の労金団地であった。団地内には家が一軒ある他は畑や松林であり、坪3000円位であったがバス停迄は歩いて10分はかかり、道もひどかったので見送った。二年後の昭和39年また土地探しをして、案内されたのが前回と同じ場所であった。今回はその土地を坪9000円位で入手した。当時でも団地内とその付近には数軒ある位で、それは皆平屋であった。この場所に家を建てた。しかし、春の風塵、雨のぬかるみ、冬の北風、夜道の暗さ等の条件で相当住み辛いことが多かった。
 ②私がこの団地に住み着いたのが昭和38年、今から十七年前である。団地内の住宅も二十戸そこそこで、空き地には松林があり、アカシアなどの雑木林や篠竹の藪で、夜になると遠くにポツンポツンと灯が見える程度であった。この頃は道路も砂利道で自転車などは初心者には乗れなかった。群馬大学が移転したのが丁度10年前の昭和45年初頭で、その頃から団地の変わりようもはげしくなり、下水道、都市ガスの普及、道路舗装、街灯の設置等環境面の急速な整備が始まった。続いて48年4月9日荒牧小が開校し、桃川小から転校した児童は翌春荒牧小一期生として群大を借りて卒業式を迎えた。』

 以上が団地創生期の一部であるが、まだまだ十分には筆を尽くせなかった。


高さ約150cmの記念碑
大正十三年十月と刻んである

高さ約170cmの記念碑
昭和十年四月と刻んである