昭和59年度に30年誌が刊行されたが、この巻頭に当時の都丸勝自治会長が「・・・ 顧みると昭和29年9月、当時の南橘地区13の字は前橋市へ合併され、村名が町名となりそれまで親しまれてきた荒牧村の名は消失した。この時の荒牧町は世帯数126戸、人口は960人であった。・・・・」と記している。そしてこの町誌によると、市に合併した昭和29年度より58年までの30年間に延べ30人の区長と自治会長がその任に当たっていた。この中で42年度の養田隆次郎会長は前年まで区長であったが、養田会長は第14代で初めての自治会長となった。この年度に世帯数は410戸と大巾に増加している。
町の変遷の様子を表す大きな要素は何と言っても人口の増加にある。その一つの例が昭和33年度(山田完治区長当時)の東荒牧(国道東)の世帯数はたったの9戸しかなかったと述べている。この他にも現在の群馬大学や荒牧団地の辺は鬱蒼とした松林で、小字名(黒岩)にもあるように大きな黒い岩がごろごろと転がっており、荒牧山と呼ばれていて人の気配など全くなかった。いくつかの沼や池があり、子供達は学校が終わると魚釣りに興じたといわれていた。その後、昭和7年の農地整理事業により水田が造成され、群馬大学や荒牧小学校の敷地へと変化を遂げてきた。荒牧団地に人家が増え始めたのが昭和37年度頃からであり、群馬大学の開学が44年、荒牧小学校の開校が48年であった。
市役所の資料によると、52年度は1,179戸、人口は3,536人の数字が見られ、平成27年では世帯数2,480戸、人口は5,463人である。なお、30年誌に掲げられている施設は老人福祉センター、老人ホーム寿楽園、群馬県青少年会館、群馬朝鮮初級中学校等が存在している。意外と気が付いていない町民の方も多いと思われるのが、国道を挟んで一町に小学校が2校ある。
平成11年3月には上毛大橋が開通し、川原町へは自転車でも危なかった石ころだらけの道が、吉岡町へも安々と行けるようになり往時を思うと全く夢のようである。