荒牧まちかど探検(50)

前橋大空襲と荒牧町

 1945(昭和20)年7月26日 太平洋戦争終結の21日前、連合軍(主としてアメリカ)は我が国に対し、無条件降伏の「ポツダム宣言」を勧告した。
 これに対し、時の政府は敗戦が最早決定的にも拘わらず全く無視してしまった。この代償はあまりにも悲惨であった。20年8月6日広島市に人類最初の原爆が投下され20万余の人命が一瞬に失われ、続いて3日後の8月9日長崎に投下され、15万余の人命が失われてしまったのは結果として痛恨の極みであった。しかもこの原爆の投下に先立って8月5日夜半、我が前橋市がアメリカ軍最大の爆撃機B29による猛爆を受けたのである。
 市立図書館の資料によると、「昭和20年8月5日午後10時30分頃マリアナ群島ティニアン北飛行場を飛び立った92機のB29は前橋上空に飛来した。この編隊機から次々と焼夷弾が投下された。現在の前橋市立第3中学校の校庭から旧共愛学園にかけて最初に火を吹いた。やがて市の中心部も猛火に包まれ、全市火の海と化した。第一弾が投下されて1時間15分、焼夷弾と爆弾によって市街地の約8割が焦土と化してしまった。この間の事はアメリカ軍の資料によると、投下されたのは焼夷弾18万4千発、150キロ爆弾871発、これに加えグラマン艦載機による凄まじい機銃掃射などにより、死者535名、負傷者600名以上、全焼1万1460戸、半焼58戸という被害であった。」こうした爆撃の中、半分は死を覚悟し命からがら逃げ延びた話しがある。
 当時、現在の住吉町に住み、小学校6年生であった町内の一女性は「あっという間に周りが火の海となった。身を焦がすような炎をかいくぐり勢多農林高校の前から桂萱方面に逃げた。この間には頭のない死体や焼けただれた子供の死体に取りすがって泣き叫ぶ母親の横をただただ死に物狂いで走った。将にこの世の生き地獄であった」と涙を浮かべ当時の思い出を語った。
 また現在の群馬銀行竪町支店横に住んでいた当時5歳であった荒牧団地の一男性は「母に背負われて広瀬川の方に姉と一緒に逃げた。後に姉の話しによると、家から500メートルほど逃げたとき、広瀬川の向う岸に物凄い地響きと共に爆弾が炸裂し母は私を背負ったまま伏せ、その上に姉が布団をかぶって覆いかぶさった。辺り一面火の海となった中、姉はその時は殆ど動けなかったが母は猛然と立ち上がった。しかしその母は左頬から血が流れ、モンペは大きく裂けていた。母は私を背負ったまま道路沿いの側溝の中に転がり込んだ。姉はその時の母の姿を見たのが最後であったと語った。私は誰かによって、かすり傷一つなく助け出された。姉の両足は爆風により大きい傷口が開いていた。」当時の記憶をまるで御自身が経験したようにたどって話して頂いた。
 いま一つ驚いたことは、下宿のはずれにある大きな農家の一主婦が語ったことである。「8月5日市街地が炎に包まれるにつれ、荒牧町にも次第に逃げてきた人の数が増し、私の家の中も気が付いた時、中は土間から居間まで人で溢れており、足の踏み場もなかった。しかし、東の空が明るくなるにつれ、一人去り又一人家からいなくなっていった。」
 直接荒牧町は特に被害はなかったが、矢張りそれぞれに当時の傷跡は残っていた。


戦災後の写真