「県都前橋糸のまち」と上毛かるたにあるように、かつての前橋は質量共に優れた生糸の生産が盛んで、それに伴う財力を生かして、高崎市との間で県庁の所在地を巡る激しい争奪戦に勝ち、その結果、明治14年に、県庁の正式な所在地が「前橋」になったとの記録がある。
しかし、この前橋が県庁所在地の「前橋町」であったかどうかに関しては、なかなか興味のある記録が見られる。昭和30年に発刊された「続・前橋史話」の中に、「市政が安定し始めた明治4年、前橋町の人口は6899人、戸数は1727戸の小さい町であった」と記され、少し前に発刊された「前橋史話」には「明治維新が施行された慶応3年からさかのぼる約60年、文化文政期(1804~1840)の11代将軍・家斉の時代に、既に「上野国群馬郡前橋町民」と画かれた古地図が残されている。
こうなると、前橋村という記録は見つからなかったが、前橋町の発祥はいつ頃なのかという事が問題になってくる。「前橋市史」によると、「明治21年4月に公布された町村制により、かなり意図的に東群馬郡・南勢多郡の中の町や村が統合されて前橋町が発足した。」とある。何れにせよ前述の県庁所在地が確定したのは「前橋町」であったと考えられる。
しかし、早くも明治23年には町議会等の要望により市制施行への議論が高まり、関係者が津、岐阜の両市へ視察に行くなどの結果、内務省から明治25年4月1日から市制が設定される通達があった。これにより全国で41番目、関東地方では東京、横浜、水戸に次いで第4番目の市の誕生となった。もちろん本県では最初の市であり、初代市長には下村善太郎氏が就任した。
さて、荒牧町については昭和30年3月に刊行された「南橘村史」によると、「江戸時代に存在した荒牧・田口・関根・川原・上小出・下小出・北代田・日輪寺・川端・青柳・竜蔵寺・上細井・下細井の13村が明治維新の際(明治4年)廃藩置県により南橘村として合併され、これ以降は村ではなく南橘村大字荒牧としての存在となった.」と記されている。
明治10年太政官からの通達により編纂された「上野国郡村史」の中に「荒牧村」の名が見られ、小字として台所北、台所、黒岩、堰下、宿後、上宿、下宿等、現在でも残っている27の小字の名称が挙がっている。
都丸勝自治会長の時に発刊された「荒牧町30年誌」の中に、「昭和29年9月、南橘地区13村字は町村合併法により明治25年に市となっていた前橋市に合併され、当時の村名から町名に改名され、それまでの荒牧村から荒牧町になった」と記されている。
現在の荒牧町には上宿、下宿、中荒牧、新田東、団地地区の5地区で運営されている。9月現在の人口は4965人、世帯数は1950戸である。